わが子ケネディ

 ローズ・ケネディの著書『わが子ケネディ』を図書館で発見して借りてきました。

 ちらちらと、後半のJFK暗殺後のボビーについて書いてあるところを拾い読みしています。

 

わが子ケネディ (1974年)

わが子ケネディ (1974年)

 

わが子ケネディ (徳間文庫)

わが子ケネディ (徳間文庫)

 これ、徳間文庫にかつて入っていたのですね。気が付かなかったなあ。

 
 以下はそこに掲載されていた、ボビーの死後、パットが編集した『あのキラキラした時間』(えー、これ読みたい!)に寄稿された文章からの引用。

 ボビーは私が知っているうちで、最も傷つきやすい人間であった。彼はまた最も憤慨することのできる人間だった。この二つはともに進み、彼をあんなに傷つきやすくさせたのは憤慨の感覚そのものであったと私は信じている。

 
 彼はこの世に貧しさと病気、戦争と邪悪があることに憤慨した。彼はわれわれに、これらのこの世の間違いに反応せよといった。彼はわれわれの良心であった。


 われわれいまや一部の人びとがいかに良心を理解したがらないかを知るにいたった。しかし自分自身および他人に、改善の努力を要求し続けなければ、ケネディ家の一員である意義はない。


 彼はわれわれに、あれは受け入れられない、これは受け入れられないといい続けた。そして、ついに、それが多くの人びとにとって耐えがたいことになった。同時に、彼の要求はわれわれが向上の努力をすることであり、われわれが互いにもうすこし愛し合うことにすぎなかったことも多くの人びとに理解された。彼はわれわれに現在の姿よりもっと向上するよう努力せよと要求しただけだった。(サンディ・バノキュア 記者)

 1966年12月24日、私は事務所に入ると、ロバート・ケネディ上院議員からワシントンに電話してほしいとのメッセージがあったと知り、びっくりした。それまで彼に会ったことも、見たこともなかった。

 電話をすると、私に会いたいとのことで「できたら今日にでも…」といった。私はちょっと素気なく「事務所には一日中いますよ」と答えると、彼はおだやかに「わかりました。できたら、4時の飛行機でゆきましょう。事務所に着くのは6時ちょっと前になるでしょうが、夕食の時間にかかるようにはしません。ありがとうございました」といった。音に聞こえた傲慢さはどこへいったのか、と思った。

 彼は予定通りの時刻に到着し、私は会った途端、たまらなく好きになった。手短なあいさつののち、彼はべドフォード・スタイブサントに関する計画を雄弁に、大変な説得力をもって説明し、私に計画のディレクターになってほしいとたのんだ。

 最初の出会いから私は一般に持たれている公私両面のかれの印象が信じられない程不正確だということをますます自覚してきた。彼は途方もない同情心と最高の信念を持ち、基本的には恥ずかしがり屋で、いささか無口であり、私が出会った人間のうち最高にユーモアのセンスを持った人間である(冗談の被害者になるのはたいてい彼自身だった)。私にとって、彼と一緒に仕事するのはたいへん楽しかった。(ベンノ・シュミット 金融業者 共和党