雨の中の和解

 RFKが殺された後に書かれた多数の追悼記事の中から、私の好きなものを一つ。

 筆者はスティーヴ・ベル(Steve Bell)。

 Perspective ABC Radio Network(June 9, 1968)

 私の考えていることは、一人の人についてである、…彼の政治についてではない。これらの考えは、私が予備選とケネディの大統領選挙の取材を始めた時、私の友人および知人の全員から尋ねられた一つの質問がきっかけとなっている。その質問とは「ボビー・ケネディとは、本当のところはどんな人なのか?」。

(中略)

 私のロバート・フランシス・ケネディに抱いた最初の印象は、体格的にはなんて小さい人だろうというものだった。彼は故大統領の兄よりもはるかに小さく見えた。また、ロバート・ケネディはそっけなく、彼の周囲の人や出来事から殆ど身を引いているように見えた。

(中略)

 しかし、ロバート・ケネディについてのその最初の印象は変わった。変わり始めるのに大して時間はかからなかった。ネブラスカ予備選挙が終わるまでに私は友人に、私的な形でだが、ロバート・ケネディは候補者たちの中で「最も印象的」であると語っていた。私はまだ11月に誰に投票したいか決めきれていなかった…だが、選挙運動中のケネディは何か特別だった。


 おそらく、その変化はインディアナポリスでの勝利演説から始まっている。演説は別段歴史的なものではなかった。しかし、私自身のその演説に対する初印象は、ケネディの機知であった。それは「身を引いている」人びとからは出てこない、自然に出てくる類のものだった。それは、他者のために「感じる」ことのできる人びとから出るものだった。私はその言葉を何も思い出せない…単なる印象だけである。その時は、別に書き留めたりテープに録っておくほどの重要性はなさそうだったのだ。

 
 また、(印象として)彼がこの社会のあらゆる分裂の中で和解の必要性を語ったやり方もあった。なぜか、その言葉は政治的な勝利の瞬間にその場所で出てきたのだ。その言葉は、祝いの雰囲気に殆ど水を差していた。


 だが、ネブラスカにおいて私のロバート・ケネディへの新しいイメージがしっかりとした形になり始めた。(中略) ネブラスカで私たち(訳注:RFKの選挙活動を取材するジャーナリストたち)は突然、ロバート・ケネディは貧しい人達、特にアメリカインディアンの悲惨な状況に殆ど取り憑かれていると気づいたのである。彼がアメリカの分裂を癒すことについて、彼ら自身を助けるために助け無き者を助けることについて繰り返し繰り返し語る時、彼は政治家以上のものだった。

(中略)

 私にとり、ケネディについての最も印象的な瞬間の一つはオマハクレイトン大学で起こった。

(中略)

 それから別の質問が来た。一人の若者が「しかし軍隊はゲットーから若者を脱出させ、ゲットー問題を解決する一つの方法ではないですか」と言ったのだ。その時、演壇の上にいた男はもはや何の候補者でもなかった。「理解できない」と彼は言った。「カトリックの大学で、どうやったらそのような態度がとれるのか?」「どうしたら君は座り込み、そんな風に語ることができるのか?」と彼は尋ねた。「この間にも、南部から入隊した黒人の青年たちと貧しい白人たちがヴェトナムで死んでいるのに。」もし戦争が戦われねばならないのなら、全ての若者にその同じ義務はあるのだ。


 その後、同じ日にケネディ議員がオマハの北部―暴力以外は見当たらないかのような黒人ゲットー地域―を回っていたとき、雨が降り始めた。しかし、それでも群集は道沿いに連なり、多くがケネディが乗っていたコンバーティブルの屋根を叩いた。突然、車は止まった。ケネディ議員は、犬のフリックルを乾いて気持ちよいプレスたちのバスに乗せると、コンバーティブルの屋根を下ろした。そして、候補者は雨の中を立って、何百と言う人々と握手し、ずぶぬれの群集に語った。それは、選挙運動のジェスチャー以上のものであった。それは、和解のレッスンだったのだ。それは暴力を終わらせる必要と、力は民主主義的な過程を通じた変化を必要とすることについての短い講義を含んでいた。

(中略)

 (プレス)全員が、人間ケネディに感動していた。
 
 (中略)

 これが私が見たロバート・ケネディについての真実だ。彼は大義を持った人だった。

(以下略)



 上記で語られていた、オマハで雨に濡れつつ演説しているRFK。
 こういうボビーがやっぱりいいなあ。