キング牧師の伝記の中のロバート・ケネディ

 マーシャル・フレイディによる『マーティン・ルーサー・キング』をざっとですが読みました。
 これは、マーティン・ルーサー・キング牧師(MLK)の女性問題や剽窃問題にも実にはっきり言及した、キングを神話化していない伝記です。

 

マーティン・ルーサー・キング (ペンギン評伝双書)

マーティン・ルーサー・キング (ペンギン評伝双書)

 著者は、キング牧師が持っていた弱さを非常にはっきりと書き、英雄的な人物というよりも、事態の大きさの前におののき、困惑し、迷い、失敗し、しかし大きな失敗をしてマスコミ他から叩かれても、その失敗に育てられて立ち上がる、私たちと同じような人間として、キングを描写しています。

 しかし、それでいて、何かしら常人には出来ないことをここぞと言うときに、まるで聖霊が注がれたかのようにやる人物。
 確かに何か類稀なものを持っていた人物。
 旧約聖書によく出てくる、小さくて一番弱いものだからこそ、神から選ばれ、指導者となる人々を思い起こさせる人物。

 そのような人としてキング牧師は描かれているような印象を受けました。

 梶原寿氏のキング関連書籍も、特にMLKの神学的側面について教えられるところが多い良書であったと思いますが、このフレイディの伝記も、個人的には感銘を受けました。(人によっては偶像破壊的な本とみなすかも…。)

 

マーティン・L・キング (Century Books―人と思想)

マーティン・L・キング (Century Books―人と思想)

 

 さて、フレイディの本に少しだけ、当初、MLKのことを理解せず、あまりそりが合わない司法長官としてロバート・ケネディが、ちょこちょこと顔を出しています。

 しかし、ここで引用しようと思うのは、最後の部分、キング暗殺後の触れたくだりです。

※実際は一つの段落ですが、パソコン上では読みにくいと思われるので、適当に改行しています。

 

 信頼が失われたからこそ、過去一年にわたってキングは悩んできたのだが、それでも四月の夕暮れにメンフィスで鳴り響いたライフルの銃音に、多くのアメリカ人は希望を引き裂かれたかのように感じた。

 その結果、アメリカ中のスラムで怒りの炎が燃え上がり、その煙はワシントンの白いドームの上の太陽までもくもらせるほどであった。その後数週間の間に、キングという一人の人間の死は、アメリカにおける非暴力運動の死を宣告したと思われるようになり、近年のアメリカの歴史上最も高尚な道徳的偉業が彼とともに消えてしまったかのようだった。

 彼が勢いを失っていたのは明らかだが、このように暴力的な死という無残な結末を迎えてしまったために、メンフィス以降は、国内の異人種同士が手におえないほど対立して最終的に分裂するのを避けるために即効性のある最後の切り札を行使できるものは他に誰もいない、ということが突然明らかとなった。

 ひょっとすると、ロバート・ケネディならばほんの短い間だけであっても、それが出来たかもしれないが。(233頁)

 唐突にここで、ロバート・ケネディの名前が出てくるので、多くの日本人読者には理解できないのではないかと思ってしまいました。
 
 この本でこの部分以外で登場してくるロバート・ケネディはただの司法長官で、キングのことも公民権運動のこともよく分かっておらず、最初は阻止しようとしていた人物としか見えないので。(もっとも、次第に理解し始め、変化することはちょっぴりながら書かれておりますが。)

 やはり、あのすさまじい68年のアメリカ合衆国を短い間だけだったとしても統合できたかも知れない人間だったんだなあ、ボビーは。やはり彼が死んで、アメリカの歴史は変わってしまいましたね。惜しい。