『1968』上・下の中のRFK

※この記事は、別ブログに掲載したものを一部手直ししたものです。

『1968』からRFKに関連する部分を抜粋。

1968―世界が揺れた年〈前編〉

1968―世界が揺れた年〈前編〉

 ロバート・ケネディは父親や兄の期待に必死で応えようとしていた。第二次世界大戦に従軍できずに終わったロバートは、戦場の兵士たちにずっとあこがれていた。1960年にジョージタウンで開かれたパーティーで、生まれ変わることができたら何になりたいか、と訊かれたときには、「パラシュート兵」と応えた。ロバートは兄のように気さくでもなく、人を引きつける独特の魅力を備えているわけでもなかった。それでも、その魅力的な大統領をいかにテレビで引き立たせるかを理解していたのはロバートだった。彼は、ホワイトハウスにそれまでいなかったメディア顧問を起用し、ジョン・ケネディを初のテレビ向け大統領に仕立てあげたのである。ジョン・ケネディは、テレビのことはほとんどわかっていなかったが、大らかで気取ったところがなく、ウィットに富み、笑い方も魅力的で、テレビには打ってつけの人物だった。それにひきかえ弟のボビーは、テレビのことを知り尽くしていたが、テレビ受けするタイプではなかった。見た目どおりぎこちなく、思い詰めるところがあったからだ。ジョンは、ロバートの真面目な性格をからかって、彼のことをよく「真っ暗ロバート」と呼んでいた。あとから振り返ってみればわかることだが、ロバートが残酷な運命をたどるのではないかという雰囲気をいつも漂わせていたのは、その生真面目で思い詰める性格のせいだと、いまでは容易に想像できる。そんな彼について、ロバート・ローウェルは「悲運が彼の神経に織り込まれている」と書いている。(上巻 253〜254pp)

 ロバートは、ほかの兄弟のようにたくましくはなく、華奢な体つきをしていた。また、ほかの兄弟とは違って、信仰の厚い敬虔なカトリック教徒で、誠実かつ献身的な愛妻家だった。それに子ども好きでもあった。ほかの政治家は赤ん坊に笑いかけたり、子どもといかにも親子はこうでなくちゃというポーズを見せたりするものだが、ロバートはいつも本当に子どもたちと遊びたいと思って自分からそばに近づいていこうとしているように見えた。子どもたちもそれを感じ取って、うれしそうに進んで彼のまわりに寄っていった。(上巻 254p)


 こんな感じです。

 

 ロバートは自己改善に熱心で、それだけ自己発見にも積極的だったようだ。勉強のために本をもちあるいていた。一時、イーディス・ハミルトンの『ギリシャの道』を読んでいたのをきっかけに、アイスキュロスを初めとしたギリシャ作品に触れるようになった。エマーソンの作品をもちあるいていた時期もあった。その次には、カミュにもはまった。報道担当官のフランク・マンキェーウィッツは、地元の政治家との時間はほとんど取らないのに、ロバート・ローウェルなどの親しい文豪との対話には何時間もかけると不満をもらしていた。(上巻 255p)

 ロバートは、兄の死をきっかけに、深刻な意味で目覚しい成長をとげた。自分の値打ちに気づき、家族の問題より大切なことを見つけた。そして、依然として悼まれている兄が政権を握り、人気を集めて勢威をふるっていた時代以来の昔なじみの支持者に反対されても、自分が大切だと思うことを貫こうとした。(上巻 257p)

 ロバートは話し上手ではなかったが、それでも口にすることは並外れていた。今日の政治家とは違って、彼は民衆が聞きたい言葉ではなく、聞くべきだと思うことを語った。また、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアにも似た言いまわしで、彼のような厚い信仰心をもって、個人の責任を果たすべきだといつも強く訴えた。正義を守ることは、義務であるとした。強い反戦姿勢をとる一方で、徴兵を拒否する学生を批判した。訪れた先々の大学では大勢の喝采を浴び、学生たちが徴兵を拒否することで自分の責任を恵まれない人に押し付けていると唱えた。それでいて、民主主義における戦争は、「国民の名のもとに」おこなわれなくてはならないとし、政府のベトナム政策に納得できなければ、意義を唱えなくてはならないとも語った。(上巻 257〜258pp)

 ロバートが指摘した間違いや、やるべきことは計り知れない数に及んだ。ロバートは、国が経済成長に目を向けすぎていることを批判した。(中略)こんな革新的なことを口にする人物が、本当に大統領になれたのだろうか。その可能性はあった。なにしろ、ケネディ一族の人間だったからだ。(上巻 258〜259pp)

1968―世界が揺れた年〈後編〉

1968―世界が揺れた年〈後編〉

 1968年のこの年、世界はボビーが毎日少しずつ成長していくさまを見守っていた。口のなかでもごもごしゃべる癖のある一族のなかでも存在感の薄かったボビーも、選挙中に取材を受けたりテレビに出たりするたびに、少しずつ歯切れも押し出しもよくなった。彼の展開した選挙運動は、アメリカの選挙戦でもめったに見られないほど精力的で固い意思が感じられた。ボビーが「キスして、ボビー」と書いたプラカードを手にした群集の中を通れば、ロックスターさながらに靴も服もはぎとられた。テレビ映りのよくなったボビーを見て、アビー・ホフマンは「ハリウッド・ボビー」と呼んでやっかんだ。ホフマンは不満げにこう語っている。「ジーン(ユージン・マッカーシー)は大したことはなかった。メッツの応援みたいに、せいぜいこっそり応援されるのがオチだ。彼がぜったいに勝てないことは、すぐにわかる。だけどボビーは・・・・・・毎晩テレビをつけるたびに、あの長髪の若き騎士が手を差し伸べる姿が映っている。(中略)長髪の若者たちがボビーの声にどれほど魅力を感じているかを聞いてみれば、『イッピー!』が苦境のまっただなかにあることがわかろうというものじゃないか。」トム・ヘイデンは、有力な政治家一族から立候補した者たちに魅力を感じる癖はなかったが、こう書いている。「それなのにあの混乱の年、わたしの目から見て、アメリカで魅力のある政治家はジョン・F・ケネディの弟ただひとりだった。」(下巻 99〜100pp)

 詩人エフトシェンコは、ケネディの目を「意思と不安のふたつの青い塊」と評した。ケネディがこのロシアの詩人に会ったとき、エフトシェンコは乾杯の音頭をとると、グラスを叩き割ろうとした。そこで、これっぽっちもロシア人の血が流れていないケネディは、安いグラスに取り替えさせた。だが安いグラスは厚手で、叩きつけても割れなかった。それを見てロシアの詩人は凶兆だとおののいた。(下巻 100p)

 ・・・グラスくらい割らせてあげなさいよ、ボビー、お金持ちのケネディ家なんだから。そんなことするから、ポール・ジョンソンにお金にがめついヤツみたいことを書かれるのよっ(>_<)。
 ポール・ジョンソンがちらりとRFKについて、冷笑的にきついこと書いているのはこの本。

アメリカ人の歴史III

アメリカ人の歴史III

 ボビーは撃たれるわずか二週間まえ、フランスの作家ロマン・ガリと対談した。ガリによれば、ボビー・ケネディはこう言ったという。「遅かれ早かれ、わたしの命が狙われるのはわかっています。政治的な理由はともかく、悪いことは伝染するし、競い合うものだから。」(下巻 101p)