ヴェトナム戦争反対の発言

 有名な、1967年11月26日にテレビ放映された“Face the Nation”で、ヴェトナム戦争の道義的意味を問うた、RFKの発言の一部を訳してみました。(誰も頼んでないのに^^;)。

 インタビューに答えているもので、どういう語り口で訳すべきか迷い、とりあえず丁寧な感じで訳してみました。

 ちょっと適当な訳になっている部分があります…。

アメリカがヴェトナムを助けようとしているのは、南ヴェトナムの人々が自分自身の未来、自分自身の政府を決める権利があるからです。北ヴェトナムにそれを押しつけられるべきではないからです。それで介入したはずが、我々は変わってしまった。


(中略)
我々の道義的立場は、私にはとんでもなく変化したとみえます。(Our whole moral position, it seems to me, changes tremendously.)


 一つ、我々はあそこにいて、人々を助けている。彼らと一緒に我々は働いている。我々は彼らの独立のために戦っている。二つ、我々は敵を殺しているが、多数の市民も殺している。しかし、我々がそれをするのは、彼らが望むからだ。
さて、我々は変わってしまいました。変節したのです。たぶん彼らはそれを望んでいないが、我々がそれを望んでいる。だから、我々はあそこに介入して南ヴェトナム人を殺す。


 我々は南ヴェトナム人を殺している。子供を殺し、女性を殺している。罪のない人々を殺している。なぜなら、我々はアメリカ本土で戦う戦争を欲しくないから、あるいは敵は1万2千マイル向こうにいるから……です。
我々の道徳的立場は、私にはとんでもなく変化してみえます。
我々に、このアメリカ合衆国に、自分たちを守りたいからという理由で、そうしたことを行う権利があるのでしょうか。
我々に、このアメリカ合衆国に、多数の人々を殺し、何百万という人を難民にし、女性や子供を殺す権利があるのでしょうか。(Do we have the right here in the United States to say we are going to kill tens of thousands of people, make millions of people as we have refuges, kill women and children as we have?)


(中略)私はこの権利を我々が持っているかどうかを、真剣に問い質しているのです。


(中略)ここアメリカにいる私たちは、ナパーム弾を使用するとき、一つの村が破壊され市民が殺されるとき、それ(注:この戦争は我々の戦争でもあるということ)を感じなければなりません。これは、私たちの責任なのです。ここアメリカにいる私たちにとって、これは道義的義務であり、道義的責任なのです。

 
 私は、私たちはそのことを忘れてしまっていると思います。


 


 これ(↑)の中で、インタビューのごく一部を見ることができます。



 「我々に、このアメリカ合衆国に、多数の人々を殺し、これまでやったように何百万という人を難民にし、これまでやったように女性や子供を殺す権利があるのでしょうか。」


 こういう問いを出せるこの人は、やはり偉大だ。

 タダ者ではない!

 もっと、RFKの演説を読んで、この人の思想(というと大げさですが)を知りたいと思いました。


 このインタビューが収録されているのは


 

RFK: Collected Speeches

RFK: Collected Speeches


 このインタビューのトランスクリプトの後に編集者が少しこれについて書いているのですが、そこにトランスクリプトだと冷静な動きのない冷たい文章になってしまって、RFKの感情が横溢したコメントを伝えられなくて残念という感じのことが書いてあります。

 上の映像でそのインタビューを見ていただければ、E・Guthman氏の思いに共感すると思います。