心無き暴力の脅威について

 映画『ボビー』の最後に流れる演説は、一部省略版ですが、ここで訳出したのは、全部です。

 急いでとりあえず訳したという感じなので、もう少しゆとりがあるときに推敲したいと思います。

 誤訳にお気づきの方がおられましたら、ご教示下さい。

 今は恥と悲しみの時です。今日は政治について語る日ではありません。私はこの機会をアメリカにおける心なき暴力の脅威について簡単にお話しすることに使いたい。この暴力は再び私たちの国とそれぞれの命を汚しています。


 それは人種には関係ありません。暴力の犠牲者となるのは、黒人、白人、富む者、貧しい者、若者、年配者、有名人、無名の人。最も大切なことは、この人たちが他の人間から愛され必要とされている人間だということです。誰がこの無意味な流血に苦しむことになるかは定かではありません。しかしこの暴力は私たちの国で繰り返し、繰り返し起こっています。


 なぜでしょう?暴力が何を達成したというのでしょう?何を創り出したというのでしょう?暗殺者の放った銃弾は斃された人びとの大義を止めたことは一度もありません。暗殺者は卑怯者に過ぎません。英雄ではないのです。そして抑制のきかなくなった暴徒はただの狂乱の声であって理性の声ではありません。


 アメリカ人の命が他のアメリカ人によって不必要に奪われるいかなる時も―それが法の名によるものであろうと、法を無視したゆえのことであろうと、ひとりの人間によってであろうと集団によってであろうと、冷酷に、あるいは激情に駆られてであろうと、暴力の攻撃もしくは暴力への応答であろうと―私たちが他の人が痛みをもって不器用ながらも自分と自分の子供たちのために織り上げてきた命の織物を引き裂く時はいつでも、国家が貶められるのです。


 アブラハム・リンカーンは「自由な民の間で、投票ではなく銃弾に訴えて成功することはありえない。また、そのような訴え方をする者は自分自身の大義を失いその代価を支払うことになる」と言いました。


 しかし、私たちは共通の人間性と文明への要求を無視する暴力のレベルが上がることに寛容のようです。私たちは遠くの国で市民が殺されているという新聞の報道を心静かに受け入れています。私たちは映画やテレビ画面での殺人を褒め称え、それを娯楽と呼びます。自分たちが望むどんな武器や弾薬も獲得できるということを安易に正気のこととしています。


 あまりにもしばしば、私たちは威張りちらす者、脅す者、力を振るう者を賛美します。あまりにもしばしば、私たちは他人の打ち砕かれた夢の上に自分の生活を築こうとしている人々を許してしまいます。


 海外で非暴力を教えるアメリカ人のある人々は、この自国ではそれに失敗しています。暴動を扇動する他の人びとを非難する人々の中には、自らの行為によって暴動を招いています。ある者たちはスケープゴートを探し、ある者たちは陰謀を探します。

 
 しかし、これだけははっきりしています。暴力は暴力を生み、抑圧は報復をもたらす。私たちの社会全体を浄化するには我々の魂からこの病を取り除くしかないのです。


 他の種類の暴力もあります。よりゆっくりとですが、しかしその致命的な点については銃撃や夜中の爆弾と同じです。これは社会制度の暴力です。すなわち、無関心と無行動と緩慢な衰弱。これは、貧者をさいなむ暴力です。肌の色が異なるという理由で、人間の関係性を毒していく暴力です。これは飢餓によって、図書が整備されていない学校によって、冬に暖房のない家によって、子供を徐々に破壊することです。


 これはひとりの人の精神を破壊します。その人に父親として立つ機会を否定し、大勢の中で一人の人間として認めないことによって。そして、このことは私たち全員をひどく苦しめるのです。


 私は一連の、いやたった一つの特別な改善方法をも提案するために、ここに来たわけではありません。広く適した原則のためにしなければならないことを私たちは知っています。

 
 あなたが誰かに、自分たちの兄弟を憎み恐れることを教えるとき、ある人の肌の色や信条や追い求めている政策のゆえに劣った人だと教えるとき、自分と違う人たちは我々の自由や仕事や家族を脅かすのだと教えるとき、その時、人は他人を同じ市民としてではなく敵として対立することを学びます。協力する相手ではなく征服する相手として、従わせ相手の主人と君臨することを学ぶのです。


 最終的に、私たちは自分たちの兄弟をよそ者とみなすようになります。街を共有していても共同体は共有していない存在として、同じところに暮らしながら、同じ目標を持たない者として見るようになる。私たちはただ共通の恐れ、互いに離れていたいという共通の欲求、武力で解決したいという共通の衝動だけを持つことになるのです。これらのことに、最終的な答えはありません。


 しかし、私たちはしなければならないことを知っています。それは、我われ市民の中で真の正義を達成すること。問うべきことは、実行するために捜し求めるべき政策は何かではありません。問うべきは、私たちは自分たちの中に、自分自身の心の中に、私たちの存在の恐るべき真理に気づく人間の目標へのリーダーシップを探せるかどうかです。


 私たちは人間の間にある偽りの識別の虚を認めなければなりません。他の人の向上を捜し求めて自分自身の向上を見出すことを学ばなければなりません。私たちは我われの子供たちの将来は他の人びとの不運の上に築かれるものではないことを認めなければなりません。私たちはこの短い人生は、憎しみや復讐によって高められたり豊かにされたりはしないのだということに気づかなければなりません。


 これ以上暴力を私たちの国ではびこらせないために、この地球上での私たちの人生は、余りにも短く、なすべき仕事はあまりにも多いのです。もちろん、暴力は政策や決議では追放できません。


 しかし、私たちは一瞬でも、私たちと共に生きている人々が私たちの兄弟であることを思い出すことが出来ます。彼らも私たちと同じように短い人生を生き、私たち同様、彼らも目標と幸せのうちに自分の人生を生き抜く機会を捜し求め、満ち足りた達成感を勝ち得たいと願っているのです。


 必ずや、この共通の信念の絆、この共通のゴールの絆は私たちに何かを教えてくれるはずです。必ずや、私たちは私たちの周りにいる人々を仲間と見ることを学ぶことができます。必ずや、私たちはもう少しだけ努力をし始めることができます。私たちの中にある傷を手当するため、私たちの心の中でもう一度、兄弟、同胞となるために。

 演説の原文は以下のサイトでどうぞ。

http://www.rfkmemorial.org/lifevision/onthemindlessmenaceofviolence

 その演説をしているRFKの映像。


 こちらは映画『ボビー』のラストで使われた、編集された演説。


 こういう短い演説はまだいいですが、南アフリカでした演説とか、長いからどうしようかと考えています。

 誰に頼まれているわけでもないのですから、別段、下手な訳を載せる必要もないですけれどね(~_~;)。

 まあ、自分の勉強のためというか。