委託の祈り
『カトリック生活』1970年7月号にRFKが自分で作って毎日祈っていたという「委託の祈り」が掲載されていました。
神よ、私自身をみ手にゆだねます。
つぼ作りの粘土のように
この私をこねまわしてください。
そして型あるものにおつくりください。
またもしおのぞみでしたら
兄のジョンの命のように
それを割ってしまわれても何も申しません。
私が、何をし、
何をすべきでないかをお教えください。
ほめ上げられ、また叩きつけられ
慰められ、また苦しめられ
全く役立たないもののようになった私は
あなたの母上のように
“み旨が行なわれますように”
というほかに言葉を知りません。
愛そのものである
十字架の愛をお与えください。
けれども
自分を持ち上げる
英雄的な十字架ではありません。
むしろ、至らない私が
嫌悪しつつ抱く十字架です。
反対、忘却、不成功、不評
冷淡、拒否、軽蔑、不都合、不具
拒絶、乾燥の中で抱く十字架を。
その時はじめて
私があなたを愛していることが
わかってもらえるでしょう。
私自身にはおそらくわからないでしょう。
けれども、それでいいのです。
十字架の聖ヨハネとかリジューの聖テレーズを彷彿とさせる祈りだなあというのが、私の感想です。
決して自分がミサに出席している時の写真を撮らせなかったRFKが油断したのか(?)、チャベスといっしょの野外ミサで、ホスチアが掲げられるのに対して跪こうとしている(と推測しているのですが)瞬間の写真。
イエスへの真剣さが伝わってくるいい写真だ思っているのですけど。