ドロシー・デイ

 20世紀アメリカのカトリック教会を代表する人物として、トマス・マートンと並んでドロシー・デイは不可欠な人物だ。


 


 無神論からカトリックに回心し、カトリック労働者運動のカリスマ的な指導者として、また非暴力主義、絶対平和主義を貫き、行動した信徒として、アメリカのみならず、世界的にカトリック教会にとって大変重要な存在だと思うのだが、日本では殆ど紹介されていないように思う。

 彼女の活動の基盤はニューヨークだった。RFKもニューヨーク選出の上院議員だったし、時代的に完全に重なっているので、何かつながりがあったら面白い展開になったことだろうと思うのだけれど、残念ながら両者の間には接点はなかったようだ。

 デイの霊性に触れていれば、RFKの信仰ももっと深化したろうにと思う私としては、惜しい。両者の関心事は似ていただけに惜しかったなと今更どうしようもないことを残念がってしまうのが、ファン心というヤツでしょうか。

 もっとも、二人が会っていても反りは合わなかったかも、という気もしないでもないですが(^_^;)。



 デイは1933年から『カトリック労働者』(新聞)を発刊し、カトリック労働者の家と農場を各地に作り、カトリック労働組合の組織化を行った。それは、労働に宗教的道徳的な意味を見出すような組合を作るためだった。

 1935年のエチオピア戦争を皮切りに、スペイン内乱、第二次世界大戦と、戦争の時代に突入すると、彼女は平和主義を貫く運動を始め、戦後もその運動を継続し、ヴェトナム戦争にも反対した。

 木鎌安雄氏の『アメリカのカトリック』に、ドロシー・デイの生涯と霊性が紹介されている。

 

 それによると:
 
 デイの特徴は、自由、貧困、暴力に対する彼女の姿勢にある(180p)。

【自由】

 彼女は社会における個人の自由と尊厳を示すために、「人格主義」という言葉を使い、分産主義の立場を取った。分産主義は、「人間に固有な政治経済における人格的自由は生産手段が広く分配分産されるときのみ維持されるという考え」だった(183p)。

 それゆえ、デイは大きな組織の運動を否定的に見、大きな組織は個人の行動を非人格化するとみなしていた。彼女のキリスト教的分産主義は、「個人の社会的責任とキリストとの関係を強調」(184p)するものだった。


【貧困】
 
 アメリカンドリームとは貧困から富への道であり、財産は神の賜物であり、貧困は道徳的な弱点と見られるアメリカ合衆国にあって、ドロシー・デイは貧困は社会の病気であって、貧しい人のそれではないと見た。

 私有財産は認めていたが、必要以上の収入を貧しい人に分配することは、正義であるとし、富める人は正義を行うことによって貧しい人と一致できると考えていた。

 また、彼女は「自発的な貧困」を主張した。

 「自発的な貧困は、直接的な行動である。衣装戸棚の中の上着は、貧しい人のものである。さらに言うなら、上着を求められたら、マントも与えなければならない。(略)口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう、と詩編は言っている。多く与えれば、主は、多く与えられるのである。これが信仰による成長である。これが共通感覚をもって生活し、振興が統合されている人の姿勢である。危機のときに、寛大な心をもって生きることは、唯一の共通感覚である。だれでも、自身、洪水、火事のときには進んで多くを与えるのである。政府でもそうするのである。」(188p)

 

 一時代前には、貧しい人びとを救うために、自ら貧しくなっては、貧しい人びとを救うことができないという富者の論理と倫理があったが、デイの自発的貧困は、それを否定し、先のデイの引用文でも言っているように、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなければならない(マタイ5:40)という聖書的な原理に立っている。「私たちが与えるものすべては、与えるために与えられる。私たちが持っているものは、すべて私たちのものではない。私たちが与えなければならないものとは、私たちの時間と忍耐と愛である。」
(189p)


 頭ではわかっていても、自分の力だけでは到底できないですね。キリストとの関係なしには無理です。少なくとも私には。


【暴力】

 デイは平和はキリスト教の特徴がもっともよく統合したものであると見なしており、非暴力は、キリストの山上の説教と、隣人を愛せよという命令に基づいた福音の教えであると見ていた(191p)。

 デイはカトリック労働者運動と他の運動の違いは、戦争反対と私有財産分配論にあると考え、それはキリストが与えたものだと述べている。

 

 「これが今日の多くの信徒使徒職と私たちとの違いである。それは、キリストが私たちに与えたものだから、それを埋めてはいけない。」(190p)

「私たちが霊という武器を使わない限り、自分を捨てて十字架を取り、イエスに従って、イエスとともに死に、そしてイエスとともによみがえられなければ、人びとは、ときには最高の動機から、他者のための正義のために防衛の戦争をしていると信じて、また現在と未来の抑圧に対する自己防衛であると信じて、戦いを続けるであろう。」(192p)

 デイは、暴力の源には恐怖心、貪欲、ゆるしの欠如があると見ていた。

 

 「共感をもって愛することを学ぶだけではなく、恐怖心を克服することを学びなさい。恐怖心は、暴力に訴えるような危険な感情です。あなたたちは、恐怖を感じるかもしれないが、その恐怖を克服する手段も知っています。」(196p)

 
 ここで、デイが言っている手段とは、人をゆるすこと。

 ブッシュのキリスト教理解の真逆を行く考え方だなあ。


 長くなってしまいました。
 まだ、デイのキリスト論や教会論について、この本は論じてますが、本日はここまで。