南アフリカのロバート・ケネディ

 前回、南アフリカのRFKについて書いたとき、E・トーマスの本に南アフリカ訪問のことが書いてあったことを思い出したので、追加します。


 

Robert Kennedy: His Life

Robert Kennedy: His Life

 
 1966年、NUSAS(「南アフリカ国学生連盟」)の副代表だったマーガレット・マーシャルは、ロバート・ケネディケープタウン大学で6月に演説してくれるよう依頼しました。

 RFKは、カナダのケネディ山を登ったときのように、一つの挑戦としてこれを受けます。

 南アフリカ政府は、RFKに同行するはずだった40名のジャーナリストたちのビザ発行を拒否し、ヨハネスバーグ空港に到着した彼を出迎える政府関係者は一人もいませんでした。

 いかに政府からボビーが来るな、来るなと思われていたかよく分かる。

 下のマンガからもその雰囲気がよく伺えます。


 

 

 
 しかし、群集は空港のガラスのドアを突き破ってR・ケネディに殺到して大歓迎しました。(このドアの修理代を後から請求されたりしなかったのだろうか。)

 


 

 人々にはちゃんと分かるんですね、彼がどちらの側に立っているかが。


  NUSASのリーダーだったイアン・ロバートソンは当時政府当局から自宅軟禁の状態に置かれていたため、空港でRFKを出迎え、その後の5日間付き添ったのは、マーガレット・マーシャルでした。

 南半球の南アフリカの6月は冬で、ケープタウン大学での演説が行なわれたのは非常に寒い日でしたが、1万5千人が詰めかけ、会場に入りきれない人々が溢れました。 
 外でロバート・ケネディの演説が聴けるように、ラウドスピーカーがあちこちに設置されましたが、南アフリカの安全保障部(正式にはどう訳すのかよく分からない)はワイヤーを切断してしまいました。(そこまで南アフリカ政府に嫌われるとは、天晴れ、ボビー。) 

 さて、あのRFKの演説の中で最高とされる、Day of Affirmation Addressを語りきった後。

 彼が終えた時、そこには沈黙があった。子供のように(と、マーシャルは思い出している)、彼は自分の周りを見回した。「まるで、こう言ってるみたいでした、『スピーチは大丈夫だったのかな?』って。」その後、すさまじい拍手の大嵐が彼を襲った。マーシャルは、RFKがすぐさま安堵し「上気して大喜びしている」のを見ることができた。(322p)

 なんだか可愛いね、ボビー。こういうところが、人間味あって好きだなあ。
 ほんと、少年みたい。

 
 さらに、上流階級の居住区を案内されていたRFK、通りで黒人の召使を呼び止めて握手し「私はアメリカ合衆国から来たロバート・ケネディといいます。こちらは私の妻のエセルです」と言いました。南アフリカの白人は決して黒人に触ろうとしなかったのに。

 彼が来ているという噂はあっという間に広がり、黒人たちがRFKに触れるために群がってきました。

 この辺りは、1968年の予備選の時の黒人サポーターとの交流を予期させます。そういう資質なんだな、この人は。境界線をひょいと越えていく。


 

 

 たった数日の間に、彼はもがき苦しんでいた反アパルトヘイト運動に勇気を与えた。マーガレット・マーシャルは思い起こす:

 
  彼は私たちに―私に―我々は孤立していないと気づかせてくれました。私たちは偉大で気高い伝統、あらゆる人間の内にある高潔さを再肯定することの一部をなしているのだということを気づかせてくれたんです。
  私たちは皆、疎外されていると感じていました。私がやっていることはちっぽけで意味がないことだと感じさせられていました。
  彼は私たちを歴史の偉大な発展の中に置き直してくれたんです。たとえ、それがどんなに小さなことであっても、それは積み重なっていくのだと。
  彼はモラルの羅針盤を置きなおしてくれました。アパルトヘイトを攻撃することによってではなく、単純に正義と自由と尊厳について語ることで―私たちの誰も聞いたことのなかった言葉で、それは、不滅のように見えました。
  彼は白人のリベラルな人たちを捜し求めたりしませんでした。彼は直接につながったんです―車の上に立つことによって。誰もそんなことをしたことがありませんでした。なんて単純なことだったか!彼は恐れなかったのです。(323p)


 このマーシャルの言葉の中に、RFKの強みを見ることができる。

 単純に真実を語ること。
 直接、触れるべき相手につながること。
 恐れないこと。

 このsimpleさ、straightさ。これですね。