貧困とRFK
最近私は、日本の反貧困運動に関心を抱いているため、自然とボビーと反貧困運動の関連についてもっと調べたいと考えているところです。(問題は、時間がないこと。なかなか更新もできないし。)
今日は『ケネディ家の人々』から、RFKと貧困関連の箇所を抜粋します。(日本語に訳されているから楽だ。)
(引用者注:1966年2月に、RFKはブルックリンのベッドフォード・スタイヴサント地区を訪問して、マスコミの脚光を浴びた。)
錆びついた自動車が都市の骸骨のように街路に乗り捨てられている光景に接し、建物が瓦礫と汚物に埋もれて荒れはて、社会から落伍した人びとが悪臭のなかで生活しているありさまを目のあたりにして、彼は「わけがわからなくなる」ほどの衝撃を受け、「ラテン・アメリカで見た最悪の光景にも等しい」と感じた。
(『ケネディ家の人びと』下、154p)
そのあと、2,3ヶ月の間に彼の肝煎りで心ある白人の実業家たち(元ケネディ政権の高官だったダグラス・ディロン、ロズウェル・ギルパトリック、IBMのトマス・ワトソン、ニュー・ディーラーのデヴィッド・リリエンタールなど)が提携して二つの社団法人をつくり、設立基金と事業基金をベッドフォード・スタイヴサントにもたらし、働き口を作り、地域社会の改革に乗り出した。このモデルは、ボビーが司法長官だったときに、彼のルームメイトだったデヴィッド・ハケットが主宰していた少年犯罪委員会で、そこから、政府の資金援助は受けても紐はつけず、地域社会の活動を通じて貧困と戦うという発想が生まれた。
ベッドフォード・スタイヴサント・ディヴェロップメント・アンド・サービス・コーポレーションが成長し発展すると、それに関係している一人の黒人青年が、他の者の気持ちを代弁して「ケネディは、口を出すところには金を注ぎ込む」と言った。
(『ケネディ家の人びと』下、155p)
これは今も活動を継続しています。そのウェブサイトはこちら。
http://www.restorationplaza.org/
なお、60年代には全米一のゲットーだったベッドフォード・スタイヴサント地区(『RFK』の著者、ジャック・ニューフィールドがここの出身だったはず。)については、こちらのウェブサイトをどうぞ。
同じ1966年、ボビーはカリフォルニアに行き、セサール・チャベスと出会う。「季節労働者の問題は、ゲットーの状況と違って、倫理的な面からもはっきりしていた。「これはアメリカ人の根源的な闘争だ」と彼は農業労働者たちに語った。
(『ケネディ家の人びと』下、156p)
カリフォルニアから戻ると、ボビーは小委員会をニューヨーク州北部に移して移動労働者の宿泊施設を調査し、手配師たちを「スタインベックの小説から抜けだして」きたようだと非難した。彼が次に意識を向けたのは、とくにニューヨークのインディアンとインディアン全体の困窮だった。彼はインディアン教育小委員会を設立し、アイダホ州フォート・ホールのブラックフット保留地に出かけて発見したのだが、そこでのティーンエージャーのアルコール依存症や非行、自殺の率は驚くほど高かった。保留地をまわり、インディアンの家族が住んでいる掘立て小屋や有蓋貨車を見たボビーは、「最初のアメリカ人」にそのような環境で生活させるのは「犯罪」だと語った。
(『ケネディ家の人びと』下、156p)
この写真は、ネイティヴ・アメリカンの村に出かけて小学校に行った際のもの。ネイティブ・インディアンの子供と共にいるRFKです。
※以下は、スクリーン上では読みにくいため、引用者の側で適当に段落分けを施しています。ご了承ください。
1967年に、ボビーは上院労働委員会の貧困問題小委員会とともに南部に出かけた。ミシシッピー・デルタ地帯で開かれた現地での公聴会で見聞したものは、公民権をめぐる言論や法的な措置どころの問題ではなかった。
掘立て小屋からは、屋根の下張りに使われるタール紙の吐き気をもよおす悪臭がたちのぼり、そこにいる子どもたちは腹部がふくれてうつろな目をしていて、アメリカ人というよりはアフリカの飢饉の犠牲者のようだった。
ボビーはぞっとするような掘立て小屋をのぞいただけでなく、その中にも入りこんだ。ネズミが逃げていったあとの不潔なベッドに腰をおろして母親たちと話をしたが、そのあいだ哀れを誘う子どもたちが彼の膝にのろうとするのだった。
それはもうひとつのアメリカを求めるめざましい発見の旅だった。彼がそうしたアメリカがあることを知ったのは、1960年のジャックの選挙運動中だった。しかし、当時はあくまでも政治的な思惑が先に立っていたため、それは有権者の耳目を集め、自分をドラマティックに見せようとして考えだした「問題」にすぎなかった。
しかし、いまやそれは別のものになっていた。たとえ政治的な配慮があったとしても、こうした底辺の人びとの票を集めるためではなかったのである。むしろ、こうした人びとと対話できる事実を示すことによって、ボビーはさらに多くの有権者―都市がふくらみすぎて分裂し、伝統的な権威の中枢から正統な力が失われるのではないかと恐れる人びと―に、ケネディの遺産にはものごとを結びつける力があり、彼自身はそのまとめ役になりうる政治家だということを示唆したのである。
アメリカの底辺へと下っていった彼の旅にいかなる打算があったにせよ、そこには政治的な思惑だけでは説明しきれない個人的な側面があった。ボビーが目のあたりにした人びとの苦しみは、彼の心をゆさぶった。随行してミシシッピーのデルタ地帯を訪れた黒人ジャーナリストは、ボビーが悪臭のたちこめる部屋に座り、化膿した吹き出物におおわれている子どもを抱きあげ、あやしているさまを見守り、こう述懐している。
「私がショックを受けたのは、彼がそうしたからではなく、自分にはそれができなかったからであり、あそこに入っていって、あの小さな赤ん坊にさわることなど考えられなかったからだ。私は鳥肌が立ったが、彼は気にもとめない様子だった。」
フォート・ホールのあるインディアンはこう言った。「大勢の白人がワシントンからやってきては仰天していた。だが、彼らの涙はワニの空涙だった。ケネディ上院議員の涙は本物だった。」(『ケネディ家の人びと』下、157p)
貧困問題に関する公聴会で質問中のロバート・ケネディ上院議員(1967年)。
ロバート・ケネディにとって、「ひとりの人間でもものごとを変えられる」という考えは、公共の善にたいする個人の理想的なかかわり方を意味していた」(『ケネディ家の人びと』下、303p)
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なんだか、ボビーの反貧困活動を見ていると、雨宮処凛さんを連想します。取り組み方の姿勢が似ている気がする。