JFKとRFKの違い
ケネディ家の若い世代にとり、ケネディ大統領は既に歴史なのに対し、RFKはいまだに現在と未来を象徴する存在なのだそうですが、それは別にケネディ家に限ったことではないと、私は思っています。
(そう書いていた本はこれ↓。)
- 作者: ピーター・コリヤー,デヴィッド・ホロウィッツ,鈴木主税
- 出版社/メーカー: 草思社
- 発売日: 1990/12
- メディア: 単行本
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2008年の大統領選挙に向け、民主党のシンボルがJFKではなくRFKなのは、実に象徴的で、いま時代はRFKなのだ!とファンとしては盛り上がるわけです。
参考:TIME
RFKが未来を象徴する存在になりえるのは、この人の本質がアメリカのエスタブリッシュメントを代表する政治のあり方と根本的に異なっていたからだ。
というのが私の考えですが、それはJFKとの違いにくっきりと表れていると思います。
というわけで、今回は両者の相違について。
RFKの伝記として、利用できた資料と取材力、そしてその視点において最高水準の、エヴァン・トーマスによるRobert Kennedy: His Life の最後の部分に、二人を比較した部分があるので、まず、この本から引用します(拙訳です)。
- 作者: Evan Thomas
- 出版社/メーカー: Simon & Schuster
- 発売日: 2002/08/27
- メディア: ペーパーバック
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ロバート・ケネディはジャック・ケネディではなかった。しかし、政治家とあらゆる権威ある存在への深い疑念と幻滅の時代にあって、ケネディの探求型の繊細な人格(ペルソナ)は真実の響きを帯びていた。ケネディの最大の強み―有権者とのつながりと、混乱した時代のための人間であろうとする彼の望み―は、大統領的で「なかった」、少なくともジョン・F・ケネディがリーダーシップを表した方法のようではなかった彼の特質そのものから来ていた。ジョン・バーソロミュー・マーティンは、これらの言葉で表現しきれない美点と、そうした美点がRFKをどれほどJFKとかけ離れたものにしているかを把握することにおいて最も肉薄している。
「彼らは全く違った人間だった」とマーティンは書いた。
ジャック・ケネディは私的な場では馬鹿にしきっていることを公の場で話し、はるかに政治家だった。ロバート・ケネディはもっと彼自身だった。ジャックは果敢なリーダーシップ、あらゆる答えを持っている男という印象を与えた。ロバートはより躊躇し、自分が正しいかどうかより確信がなく、もっとためらいがちで、もっと探求しようとし、全くそのことについて正直だった。彼はリーダーシップを示した。しかし、それは異なる特質を持ったものだった。彼のリーダーシップは、通常のあり方からはずれた非正統的な特質、当惑し混乱した支持者と共に難しい問いへの答えを捜し求め、彼らの助けを借りて物事を成し遂げようと努力する特質を有していたのである。
(Robert Kennedy: His Life 389〜390pp)
JFKは、何でも答えを知っている優秀極まりない少数のベスト&ブライテストによって政治を行い、エスタブリッシュメントが一般大衆を指導するというトップダウン方式のピラミッド型リーダーシップ。これは、1950年代までの古い政治の型につながるものだと私は思います。
一方、RFKのそれは、横のつながりを基調とするネットワークと、相互学習、相互援助的な側面を持つボトムアップ方式で万里の長城型リーダーシップと、私は勝手に名づけています。(もっともRFKについてもっと調べていけば、また考えは変わるかもしれません。)
そして、これはインターネット時代のネットワーキングが大きな力を発揮する現代にまでつながる、リーダーシップの新しいあり方ではないか、と思っています。
そしてまた、強力な指導力により人々の先頭に立つ、西洋人が思い描くリーダーというより、下からの意見を吸い上げて調整しながら人々をまとめていく、どちらかといえばアジア的なリーダーの側面もあるのではないかなあ、などと愚考している次第。
長くなりそうなので、この続きはまた今度。